人は、自分が事実を見て判断していると思っています。起きたことを確認し、その上で考え、結論を出している。多くの場合、そう信じています。
しかし、実際には、判断の前にほとんど無意識の工程が入っています。それが「解釈」です。
この解釈を、事実そのものだと思い込んだ瞬間から、判断は静かにズレ始めます。判断が始まる前には、何が混ざっているのでしょうか。
目次
事実とは何か
事実とは、起きた出来事そのものです。そこには評価も意味も含まれていません。
誰が見ても変わらない情報。
言われた言葉。
記録された数字。
確認できる行動。
事実の段階では、良いも悪いも、正しいも間違いも存在しません。ただ「起きた」という情報があるだけです。
解釈とは何か
解釈とは、事実に対して人が与える意味づけです。
どういう意図だと思ったか。
どう評価したか。
何を示していると感じたか。
同じ事実でも、人によって解釈は変わります。重要なのは、解釈は自然に生まれるものであり、それ自体が間違いだという話ではない、という点です。問題は、解釈を事実だと思い込むことです。
なぜ事実と解釈は混ざるのか
理由は単純です。分けて考えるより、一つにまとめたほうが楽だからです。
さらに言えば、解釈を事実だと思えたほうが安心できます。
「そういうことが起きた」ではなく、「そういう意味だった」と確定したほうが、判断を早く終わらせられる。
このとき、人は事実を見ているつもりで、実際には自分の受け取り方を見ています。
混ざったまま判断すると何が起きるか
同じ出来事なのに、評価が大きく割れます。数字の話が、感情の対立になります。
例えば、ある統計データを見て、「増えている」と判断する人と、「誤差の範囲だ」と判断する人がいるとします。
見ている数字は同じです。違うのは、数字に与えた意味です。
また、人間関係でも同じことが起きます。「冷たい言い方をされた」という判断の多くは、実際には「短い言葉で話された」という事実に、意味づけが加わった結果です。
これは意見の違いではありません。判断力の差でもありません。判断に使っている材料が違うだけです。
材料の違いで、自分を苦しめもするし、解釈を含んだ発言の一部が切り取られ、誤解を生み、他人をも苦しめることが往々にしてあります。
なぜ解釈で判断してしまうのか
人は、解釈に基づいて判断をしたいわけではありません。多くの場合、「今の状態がはっきりしないこと」に耐えられないだけです。
何が起きているのか分からない。
自分がどう扱われているのか分からない。
このままでいいのか分からない。
この「わからない状態」が続くと、人は早く結論を出して状況を固定したくなります。
そのとき起きるのが、事実と解釈を混ぜたまま、解釈のほうを事実として確定させてしまう、という動きです。
判断の前に立ち止まるための問い
判断を始める前に、これだけを自分に問いかけてみてほしい。
それは、起きたこと(事実)か。
それとも、起きたことへの受け取り方(解釈)か。
この問いに答えようとすると、頭の中で整理が始まります。
実際に起きたことは何か。
まだ分かっていない部分はどこか。
自分が意味を足しているのはどこか。
この整理が終わった時点で、「わからない部分」が、はっきりとわからないまま残ります。
問いに答えたからといって、判断しなくてよくなるわけではありませんが、判断を今すぐ確定させる必要がなくなります。
事実と解釈が混ざっているとき、人は無意識に「分からないのは嫌だ」「早く白黒つけたい」と感じています。
しかし、事実と解釈を分けられた時点で、「ここまでは事実」「ここから先は、まだ分からない」と言えるようになります。
すると、分からないものを無理に結論に変える必要がなくなるのです。
判断は、保留できるようになった時点で歪みにくくなる
判断は、早く下すほど良いものではありません。この視点がなければ、安心したい気持ちが判断を動かし、解釈を事実だと思い込んだまま結論を出します。
事実と解釈を分け、分からない部分を分からないまま置けるようになると、判断は自然と落ち着きます。そして、安心のために結論を急ぐ必要がなくなり、材料がそろうのを待てるようになる。
だから、判断の前に、事実と解釈を分ける、整理することが、判断の質を高める上で大事な視点の一つなのです。