答えを知ると、人は安心する。理由が分かり、説明を読めば、気持ちは一度落ち着く。
しかし時間が経つと、同じような場面で、また同じように引っかかる。理解したはずなのに、なぜか納得しきれていない。
これは珍しいことではない。
むしろ、多くの悩みはこの状態に留まり続ける。原因ははっきりしている。考えたことと、納得したことを混同しているからだ。
目次
なぜ答えを知るだけでは、判断は完了しないのか
人は不安な状態を嫌う。そのため、説明や答えに触れた瞬間、「分かった」という感覚で判断を終えようとする。
だが、この「分かった」は、多くの場合「安心した」に近い。
安心とは、不明な状態が解消されたときに生まれる感情であり、理解そのものではない。答えを知っただけの状態では、出来事と自分の感情の関係が整理されていない。そのため、判断は実は終わっておらず、感情だけが残り続ける。
「理解」とは、説明できる状態のこと
理解とは、情報を知っていることではない。
その出来事について、「なぜそう感じたのか」「何が前提になっていたのか」を、自分の言葉で説明できる状態を指す。
他人の説明にうなずけることと、自分で説明できることは別だ。説明できない限り、その答えは借り物であり、状況が変われば、また迷いが生じる。
理解とは、答えを自分の思考の中に組み込む作業である。
感情が残るのは、出来事のせいではない
出来事そのものが、感情を長引かせているわけではない。多くの場合、感情は「前提が整理されていない」ことで残る。
自分は何を期待していたのか。
何が当然だと思っていたのか。
どこで現実と食い違ったのか。
これが言葉にならないまま、感情だけが抱え込まれると、出来事は未処理のまま残る。
感情は原因ではなく、結果である。理解されていない前提の結果だ。
思考とは、感情を否定することではない
ここで言う思考は、感情を抑え込むことではない。「冷静になれ」という話でもない。むしろ逆で、感情を正面から扱うための作業だ。思考とは、感情が生まれた構造を分けて見ること。
出来事/前提/期待/現実との差
これらを切り分けることで、感情は暴走せず、位置づけられる。
考えることは、感情を消すためではなく、扱える重さに戻すためにある。
納得とは、自分の中で答えを決めること
理解しただけでは、まだ途中だ。納得とは、理解した内容を踏まえて、「この出来事は、こう受け取る」と自分の中で結論を決めることを指す。
正解かどうかは関係ない。他人に説明できるかも関係ない。これ以上、同じ出来事を繰り返し考え直さなくてよい。
そう思える位置に置けたとき、初めて納得が成立する。
思考と納得がそろって、判断は終わる
答えを知る。
理解する。
納得する。
この順番が崩れると、判断は終わらない。理解だけでは、「分かった気がする」状態で止まる。
納得がなければ、感情は再び同じ場所に戻ってくる。思考は理解のためにあり、納得は判断を終えるためにある。この二つがそろって、初めて感情は整理される。
このサイトが扱うのは、答えではない
papacan.org が扱うのは、便利な結論や、すぐ楽になる言葉ではない。
日常で生まれた感情を、仕組みとして理解し、納得できる形に置き直すための思考だ。
「この感情は、こういう仕組みで生まれていた」
「それなら、こう考えればいい」
この二段階を、具体例を通して何度も行う。
考えることは、楽になるための技術である
考えることは、自分を追い詰める行為ではない。理解できないものを減らし、感情を抱え込まなくて済むようにするための技術だ。
思考と納得は、悩まないための能力ではない。悩みを終わらせるための能力である。
参考
- 理解したつもりで判断が歪む理由 ── 見方を整理し、判断の幅を広げるために この記事で述べている「答えを知っただけで理解したと錯覚する状態」が、どのように判断の歪みにつながっていくのかを、全体構造として整理しています。個別の違和感を、より大きな枠組みで捉え直すための参考記事です。
- 判断の質を支える三本の柱 「理解したつもり」という状態が、判断のどの段階で問題を生むのかを、構造的に説明しています。本記事の内容を、判断全体の流れの中に位置づけるための補足として参照できます。
- なぜ「判断が歪む理由」を理解する必要があるのか 答えを知ることと、納得して判断することが別物である理由を掘り下げています。本記事で扱った違和感が、なぜ放置できないのかを考える材料になります。
- なぜ私たちは、事実ではなく「解釈」を見て判断してしまうのか 答えを知ったつもりになる背景にある、「解釈」を前提にしてしまう思考の癖を説明しています。本記事で触れた理解の錯覚を、より根本から考えるための参考になります。